おれが終わってしまっても
 君が笑ってくれるなら


   056:あんなに遠くに見えた終わりが、今はもう目の前に

 「姉ちゃんちょっと鏡貸してくれ!」
慎が慌ただしく姉の真由子の部屋のドアを叩いた。真由子は文句を言いながらも微笑ましそうに身なりの点検を怠らない弟を見ている。慎は何とか見てくれを取り繕う。訪問先で料理をする予定があるから服装は動きやすいものを。けばけばしい色は避けながら白いものも避ける。料理がカレーだからだ。飛沫が目立っては相手に気を使わせて申し訳ない。多少色がついていれば誤魔化せるだろうと踏んでいる。
「持ち物の方はいいの〜?」
間延びした姉の声を背に受けながら慎は七五三の少女よろしく全身鏡の前で何度もくるくる回る。
「材料は買ってあるし足りなかったら用意するって聞かなくて……ってなんで姉ちゃんにそんなこと言わなきゃいけないんだよ!」
「判った〜あのリボンの子でしょ〜うふふ〜」
ちょっとした諍いの名残を抉られて慎がぐゥッと黙った。そのお詫びがこもってないかと言われればないと言い切れないのが哀しいところだ。
 「大丈夫、慎ちゃんは可愛いから! 今日もばっちり可愛いわよ!」
「男に可愛いは褒め言葉じゃないからな」
言いながらよし、と気合を入れて自室へ飛び込む。時計で時間を確認して荷物を詰めた鞄をひっつかんで飛び出す。休日であるから仕事休みの姉はのんきに弟を送りだす。
「やっばい、間に合うか…!」
休日まで家に迎えに来てもらうのは気が引けるしご近所の手前もあるということで待ち合わせに落ち付いた。慎の背中のザックの中は野菜であるからごつごつと肩甲骨を打つ。それがちょっと楽しいような気がして慎は人知れずくっくっくっと笑った。今日はこれからユイナの家へ行ってカレーを作るのだ。


 「慎のカレーが食べたい」
部活をいつも通りに終えてさて明日からは週末休みだ、というタイミングでユイナが言ったのだ。慎がうぅんと唸る。家に来られるのは不味い。なんといっても社会人である姉がいる。物心つく前の母親の下着をおもちゃにした武勇伝を語られるのは間違いない。それは何としても避けたい。カレーを作って食べさせること自体に抵抗はない。姉など飽きるほど食べているだろう。家族でもあるし、両親がすでに亡いから料理当番は自然と時間の自由がきく慎が担当した。だから自分の料理を他人が食べることに抵抗はあまりない。
「美味しくないかもしれないけど」
「食べたい。作ってくれるって言った。だめなの?」
「場所の都合が…」
それが本心だ。ユイナの送迎が習慣化してから自転車を通学に使うのは止めた。二人で何とも言えない距離を保ちつつ帰路についている。
 退紅色の長い髪を背中へ流したユイナの憂い顔は綺麗だ。明るい髪色に合わせて眉目も同じ色だ。睫毛だけは密に黒くて長い。瞬くたびにカールされたそれが薄く眼元へ影を落とす。何の特徴もない制服とスカートだ。公立校であるし教育委員会は制服の美醜に予算を割いたりはしない。それでもなだらかに隆起した胸部や細く絞られている腹部、花が咲くように膨らみをほころばせる腰部に長い脚。短い丈が当世流行りであるらしくユイナのスカートも短めだ。男性の慎としてはあまりユイナをじろじろ見るわけにもいかない。
「じゃあ、うちに来て!」
咄嗟に反応出来なかった。やましい心算はなかったがユイナの全身を見ていたのでまずいなと思った刹那にかけられた声に叱責されたかと思ったのである。
「…うちって、ユイナの、家?」
こくん、と頷く。よく考えればまあ不自然ではない。公立校に通っているのだしまさかこのご時世野宿している学生など聞いたこともないし、ユイナには特別な能力がらみで所属する団体もあるのだ。両親はすでに亡いと聞いていたから普通に考えれば親戚の家や施設、確かクリスという女性と共に暮らしているとかいないとか。あやふやになりつつあったユイナの生い立ちをなんとか記憶の抽斗から引っ張り出して照合する。
「おれが行ってもいいの? その、クリスさんとかに了解とらなくて大丈夫なのか?」
ユイナは確か独り暮らしではない。同居人がいたはずだ。
「明日の休みに、みんな家を空けるの。あたし一人。だから大丈夫。ちゃんと前もってみんなには言っておく」
それでも男が女の園に足を踏み入れるには勇気がいる。しかも女性の聖域とも言うべき台所を使おうというのだ。慎はしばらく考え抜いた後でユイナに条件をつけた。留守中に慎を家にあげることの了承を取ること。台所を使用することも言っておくこと。慎が行くのは洗面やトイレ、ダイニングと言った限られた共有スペースだけにすること。ユイナのものであっても私室には立ち入らないこと。私室に立ち入らないことは慎が自ら課した枷だ。男が上がり込むのだからそのあたりをはっきりさせておかないとまずかろうと思ったのだ。ユイナは一つ一つに、うんうん、と頷いて確認が取れたら連絡をすると約束した。そしてその日の夕食が終わったあたりに、ユイナから皆の了承を取り付けたからカレーを作りに来てほしい旨の電話を受けたのだ。


 待ち合わせ場所にユイナがいた。膝上スカートに薄手の服を重ね着したユイナが待っていた黒く密に永い睫毛は強固にカールされて上を向いている。ぱっちりと大きな双眸が際立った。柳眉にほんのり色づいた頬。唇は小さくすぼめられて紅貝擦りの艶めかしさで艶っぽく潤んでいる。
「…化粧、してる?」
「…ッに、似合わないなら帰ったら顔洗う! あたしはやだって言ったけどクリスが…! お化粧くらいしたらっていうから…む、無理矢理だもの…」
「綺麗だと思うけど?」
瞬間、ユイナが首まで真っ赤になって目を逸らした。ぷいっとそっぽを向く。髪も左右から一房後ろでくくられリボンまでされている。髪留やヘアピンもちょっとしたものだ。見た目が華やかだ。
「ユイナ?」
「お洒落くらいしろって皆がうるさく言うから…! に、似合わない、よね…」
「そんなことないと思うけど。可愛いって言ったらいいのかな、それとも綺麗?」
「…慎が、そう言ってくれるならいい…」
じゃあ案内してもらおうかな、と慎がザックをしょい直した。慎もユイナの自宅を調べようと思えば調べられたがあえて調べていない。本人の了解もなく興信所のような真似はしたくなかった。だから慎はユイナの案内を仔犬のように待つ。ぱちぱちと目を瞬かせる慎にユイナは頬を染めたまま、歩きだす。
「こっち…」
ユイナの案内でたどり着いたのはマンションだ。だが住んでいるのが女性だけということもあり防犯には重きが置かれているようでユイナがタッチパネルで何事か操作をしている。微小な駆動音を立てて透明な硝子扉が自動で開く。するりと入り込むユイナは慣れているが慎はそうもいかない。もうユイナの家であるかのように小声でお邪魔しまーすと呟いて脚を踏み入れた。それからエレベータに乗り、タイミングよく世間話好きな小母さんと言う厄介者にも遭遇せずにユイナの自宅へたどりつけた。
 「上がって」
がちゃんと堅牢そうな音を立てて施錠が解かれて扉を開けられる。
「ホントにいいの?」
「慶介もクリスを訪ねて時々来るから大丈夫」
ひとつ違いのくせにかなり年の差以上のものを感じる才木慶介を思い出しながら慎はそっかァと脱力した。
「お邪魔します」
 上がりこんでから膝をついて靴を揃えて端へ寄せる。ユイナが上がるのを待って台所へ案内してもらう。コンロやガス栓、流し台や包丁の位置など諸々を教わってから慎は上着を脱いでダイニングの椅子の背に引っ掛けた。持参したエプロンをつける。ザックから材料を取り出し、ダイニングのテーブルに並べる。ユイナはじっとそれを凝視している。すぐ次の間がリビングであるからテレビでも見れいればいいよと言う慎にユイナは首を振るばかりだ。
「慎は見られているの嫌?」
「ん? そんなことないけど。作ってる最中から姉ちゃんがまだかまだかーとかうるせーし。神経質な性質じゃないから」
あ、と慎が気づいたように体を起こす。人参を刻んでいた手が止まる。
「姉ちゃんの話ばっかでごめんな。うち、両親がちょっといないからさ」
話題のネタが乏しいんだよなーと苦笑する慎にユイナの目がまっすぐ据えられていた。薄茶で黒褐色の瞳孔や虹彩まで透けて見えそうな透明感のある瞳が慎を見つめている。
「お父さんとお母さん、いないの」
「うん、そう」
「…あたしも。あたしもいない」
「そっか。じゃあ大変だったんじゃないか? おれには要らないこともするけど姉ちゃんがいたから。ユイナは兄弟いないんだろ?」
トントン、と野菜を刻む音が一定のリズムで響く。沈黙が下りた。まずったかな、と思いながら慎は野菜を手際よく刻む。作るのは一般的なカレーだ。チキンカレーや野菜カレーなども考えたが、カレーと言われて思いつく一般的なものの方が食物アレルギーなどがあった場合に言い易かろうと思って提案した。普通のカレーだけどアレルギーとかは大丈夫かと問うた慎にユイナは大丈夫、と意気込んで返事をした。
 じゃわじゃわと刻んだ野菜と肉を炒める。油はあまり使わない。軽く火を通す心算で炒めている。鍋ってどこかな。あたしが出す。重たいだろうから場所だけ教えてくれればいいよ。ユイナは黙って上の棚を指さす。カレー鍋が収まっている。しかも二・三人前くらいなら軽く作れそうな大きさだ。
「クリスさん達の分も作る?」
「だめ! 慎はあたしのご主人さまなの! だからあたしが全部食べるの」
ユイナが慌てて言う。言葉が強くなるのにびっくりした慎が目を瞬かせ、ユイナが気づいて恥じるように目を伏せた。
「ありがとう」
慎がふんわりと微笑む。ユイナはそれだけで全てに赦されたようにほわりと微笑んだ。可愛いな、と思う。慎を<王>に選んだことに後悔はないかと今でも慎は問いたい。ユイナの実力はすごいらしく分不相応だというのが周囲の見解であり、慎もそう思う。慎は至って平凡な少年だ。ちょっと足は速いかもしれないが記録や表彰台はちょっと遠い。料理もカレーに情熱を注ぐ、などと姉に言われるが逆に言えばカレー以外はあまり作れぬということでもある。年齢的にもまだ給金をもらう仕事ができるわけでもなし、明確に養われている立場だ。見目麗しいとか、頭脳明晰であるとか知能指数が高いとか判断力があるとか、そう言った明確な美点はない。何もかもが標準。まぁ顔は可愛いなどと姉が言うが身内であるから話半分に聞いておくのが相応というものだ。だからユイナが<王>という主人格に慎を選んだことが、慎は不思議で仕方ない。
 炒めた野菜を煮込み、カレーのルゥを入れる。ついでに多少のスパイスも効かせておく。あとは煮詰まれば好いだけだ。時々鍋の様子を覗くだけでいい。エプロンを取ってしまう。ユイナの向かいの椅子を引いて座る。二人で向かうあう。気詰まりな空間に慎はどう話題を持ち出すべきか悩んだ。やはり<王>と<守護士>の関係についての話が好いのだろうか。機を逃したまま時が無情に過ぎていく。煮詰まったカレーにケチャップやソースを加え生姜や大蒜を利かせる。少々であれば臭いも気になるまいという判断だ。それからしばらく煮込んでその間に白米を用意する。それはあたしがやるとユイナが申し出て、慎はそれに従った。二人で流しに立っても交わす言葉もなく、慎はもどかしいような焦りに灼かれながらカレーをかき混ぜた。
 白米も炊きあがりカレーも完成した。ユイナがさりげなく皿を出して飯を盛り、慎がそこへルゥをかける。二人でカレー一品の食卓を囲んだ。
「慎は、デイブレイクを倒した後はどうするの」
直截的だ。流されるように慎が所属することになった団体はユイナの所属団体でもある。その敵対勢力の総称がデイブレイクだ。スプーンを咥えたまま、うーんと慎が唸る。
「用なしになるんじゃないかな。それ以外におれって取り柄ないしさ」
団体の運営や経費の計上など実務的な役割からも遠い。また戦闘力としても慎自身は脆弱だ。
「じゃ、じゃああたしともさよならになっちゃうの?!」
ユイナが真っ青になって食ってかかる。乗り出す様子に慎が肩を押して座らせた。リボンは危うくカレーの汚れを逃れたようだ。
「いや、いや…それはいやなの………慎と、もう…」
スプーンを握るユイナの手がカタカタと震える。皿と触れ合って耳障りな金属音を立てる。それで初めてユイナは手が震えたことに気付いた。
「ユイナ」
慎の手がそっとユイナの手を包む。伝わるぬくもりにユイナがはっと目を上げる。慎が微笑む。
「大丈夫だから。戦いが終わったらおれはユイナの<王>じゃいられなくなるかもしれないけど、ユイナの友人ではいられるよ。ユイナの知り合いでも知人でも友人でも、それ以上でもいい。知り合いではいられるから。だからそんなに」

こわがらないで
おれはいなくなったりしないから

「ユイナ、おれはここにいるから」
その桃色の頬を包むように手をあてがった。さらさらと滑らかな絹のように肌触りが良い。あてがううちに流動的に体温が流れ込むかのようにぬくもりが移ってくる。泣くのを堪えるユイナの熱量が接触面を通じて慎の中へ流れてくるようだった。
「おれはおれが用なしになっても。ユイナに要らないって言われても、一緒にいたいな。駄目かな」
変なこと言ってごめんな。たはは、と笑って離れていく手にユイナがすがった。手首を掴んで離れていくのを阻む。
「だめじゃない。一緒に、いたい…! 慎じゃなきゃ…慎じゃなきゃ駄目なの…!」
手首に絡むユイナの指を解いてハンカチを握らせる。
「いつ入用になるか判らないんだからって姉ちゃんの助言、役に立ったな。せっかくの化粧、落ちちゃうぞ」
ぼろぼろとユイナは泣いていた。
「終わりが近いって言ってた。だけどあたしは慎と、離れたくないの…!」
カレーももっと食べたい。ほかの料理も食べたい。一緒に出かけたい。洋服とか雑貨とか二人で見たい。

「あたしのご主人さまは、慎なの…!」

あたしを助けてくれて。あたしが辛いときに笑ってくれて。大丈夫だよって言ってくれて。辛い時にもあたしのために笑ってくれて。そんな慎が、そんな慎だから。あたしのご主人さまでいてほしいの。
 がた、と慎が席を立つ。ユイナは受け取ったハンカチを握りしめるばかりでぼろぼろと涙をこぼした。しゃくりあげて震える。その肩をふわりと温かいものが覆った。慎の腕だった。ユイナは慎の抱擁を受けた。
「大丈夫。おれなんかが言っても説得力ないけど。大丈夫だよ、ユイナ――」
ぐずぐずと泣き続けるユイナに慎は幼子に対するように話しかける。
「戦いが終わればおれは用なしだろうと思うよ。でもユイナと知り合ったってところまでは消せないよ。だから少なくともユイナと知り合いではいられる。だったらそこからまた進めばいいんだ。戦いが終わっても、おれがユイナを知ったことまでは消せないよ、きっと――」

だから大丈夫。
おれは君の隣にいるから。

「でもおれなんかが隣にいてもユイナを守れるかは判らないけど…おれ、一般人だし…」
うーん、と唸ってしまう慎にユイナが堪え切れずに噴き出した。あぁ、だから。だからあたしは慎を選んだんだ。

「大丈夫。慎はあたしの…――ご主人さまなんだから」

そう、大丈夫。慎はあたしの隣にいようと、してくれている。
大好きよ。言わないけれどでも、とてもとても誰よりも。
それがたとえ禁忌であったとしても。


《了》

お知り合い様からもらったゲームで二次創作! 二次創作の二次創作!
ホンットこのゲーム好きすぎる!! この慎(♂)×ユイナ(♀)は鉄板!!           2012年4月15日UP

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